徳道上人像

徳道上人像

当法起院は上人が晩年隠棲されたところで、本尊は上人ご自作と伝えられる上人本尊を奉安しています。香煙でくすぶった茶褐色のお顔に、上人のお姿をご想像ください。

上人沓脱ぎの石

上人沓脱ぎ石

徳道上人は斉明天皇の御宇二年(西暦六五六年)、播麿の国矢田部の里で誕生なさいました。
その容貌は気品に満ち、眼は真澄鏡(ますみかがみ)のように美しく清らかで、髪の毛は 梳(くしけず)れば滴(したた)るように黒く艶やかに光り、深くたたえられた優雅さと聡明さに里人達は目を見張ったそうです。
成長されるにしたがって読書を好み、手に筆を持つことを無上の楽しみとし、神童との噂の中で 連日精進をお重ねになりました。
しかし、突然起こった不幸は上人の父を奪い、そして数年の後には母も 不帰の客となったのです。
仏の道を極めることこそ人間に生まれた最高の道であり、 亡き父母の菩提を弔うことが今の自分にとっては、真実の報恩であろうと大悟徹底された上人は、当時我が国随一の大名僧であった大和長谷寺の道明大徳との間に師弟の契りをお結びになりました。
約十年間の修行の後、智道兼備の名僧となられた上人は、大和の長谷寺、鎌倉の長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立されました。
その中でも大和の長谷寺では本尊大観音を御造立されました。
前記の養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しになり、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。

本堂の左側には、「上人御廟十三重石塔」があり、上人が晩年当院の松の木の上から法起菩薩と化し去ったといわれ、当院の名前もそこからつけられました。

上人が松の木にお登りになったときの、「上人沓脱ぎ石」と称するものも残っています。この石に触れると願い事が叶うと伝えられています。

法起院略年

天平7年(西暦726年)
徳道上人創立
元禄8年(西暦1695年)
長谷寺化主英岳僧正再建、総本山長谷寺塔頭開山堂として
現在にいたる。
本堂(開山堂)

本堂(開山堂)

上人御廟十三重石塔

上人御廟十三重石塔